ガチで読書記録を付けるシリーズ①:『死神の浮力』著:伊坂幸太郎

久しぶりに小説を読んだ。伊坂幸太郎の『死神の浮力』という小説だ。

 

読書から期間があいてしまって読み切れるか不安だったのだけど、非常に楽しめたので本作をここで紹介したいと思う。

 

 

 

死神の浮力 (文春文庫)

死神の浮力 (文春文庫)

 

 

 

 

シリーズ前作の『死神の精度』は、数人の対象のストーリーが描かれた短編集であったが、本作は一人の対象とのストーリーを描いた長編だ。『精度』でシリーズの魅力を十分に味わっていて、なおかつ伊坂幸太郎作品の長編における爽快さを感じたことのある読者であれば、本作は非常に楽しめる作品ではないだろうか。もちろん、そうでない方々にもお勧めしたい作品ではあるが、500頁を越える長編を読むことが不安な方には、『精度』から入る正攻法をぜひ推奨したい。

 

 

 

以下、予備知識程度に本作の内容に触れる。

 

 

 

作品タイトルの「死神」とはまさしく本作の主人公・千葉のことを指している。が、大きな鎌を持っていたり、黒いローブで身を包んでいたり、骸骨だったりと、「死神」と聞いて私たちがまず想像してしまうようなファンタジーな死神ではない。彼らはなにかしらの「調査部」で、要求しなければまともな情報を提供してくれない「情報部」から調査の対象となる人物を教えてもらう、という仕組みらしい。

 

いったい何を調査するのか、というと、「対象に死を与えるべきかどうか」だ。千葉や彼の同僚たちはその対象と接触し、一週間の調査や観察を行う。死ぬべきと判断すれば「可」となり、調査期間を終えた翌日、つまり8日目に対象には自殺・病死以外の死(そのたいていが事故死)が訪れる。死ぬべきではないとの判断されれば対象の死は「見送り」となる。このシステムは「死神」シリーズの基本概念となっており、千葉と対象との一週間がストーリーとして語られることになる。

 

前述で「死を与えるべきかどうか」を判断すると記述したが、おおよそ死の概念がないと思われる千葉をはじめとした彼らには、「人間はいずれ死ぬもの」という認識があるため、寿命で死のうが調査開始から8日目に死のうが同じと考えている。なので調査対象はそのほとんどが「可」となり、「死ぬべき」と決定的な判断で死を迎えるというよりかは、「死ぬべきではない」という判断がなされなければ自動的に「可」になる、といったようなものだ。

 

つまり対象が善人だったり才能があったりと、私たちが考えれば死ぬべきではないと思えるような人物であっても、彼らの対象となってしまえばほぼ確実に8日目に死ぬ。

 

なので調査部には対象をまともに調査せず、一度接触したくらいで仕事を終わらせ、「可」と判断するものもいるらしいが、千葉は違った。調査が仕事であるならば真摯に取り組むのが彼で、調査対象にも一週間しっかりと付き添う。付き添うものの、やはり彼も過去に調査してきた対象のほとんどを「可」にしてきたし、また音楽が好きすぎるために、調査中にも音楽が聴けるものを探すことを優先したり、抜け出して音楽が聴ける場所に行ったりしてしまう。

 

対象はそんな千葉が死神であることは知らず、ちぐはくなやりとりなったり、常人離れした(死神であるから当然なのだが)状況に出くわしたりと翻弄させられる。本作で対象となった人物・作家の山野辺遼とその妻の美樹も、調査期間である一週間のうちになんども千葉の行動や言動に翻弄される様子が描かれている。

 

伊坂幸太郎作品においてのひとつの魅力として、登場人物たちの会話のやりとりがある。彼の作品では、「」で括られた登場人物の発言そのもの自体で、感情が強く表現されることはあまりない。一見それは無機質で淡々としたやりとりのようだが、読むとここに伊坂作品特有のリズムやユーモアがふんだんに盛り込まれ、それによって生み出される雰囲気が他作品と共通の世界観へと繋がっている。

 

特に本作では、『死神』シリーズという舞台設定、そして千葉というキャラクターの存在によって、「伊坂幸太郎作品の空気感」が非常に色濃く表れている。とにかく読んでいて心地が良い。小説を読むのはだいぶ久々だったが、「あぁ、この人の小説のこの雰囲気が好きだったな」と思いだした頃には読むのが止まらなくなってしまっていたくらいだった。

 

 

 

さて、本作の調査対象となった山野辺遼だが、ある特殊な状況下に置かれている。1年前に娘の菜摘を殺され、その容疑者には無罪判決が下っていた。作家として名のある文学賞を受賞したことにより、テレビにも出演するくらい有名であった彼の家には、マスコミが集まっていた。今回の物語はそんな状況から語られることになる。

 

娘を亡くし、マスコミに執着され、家のカーテンを閉ざしきった山野辺夫妻は憔悴しているかのように思えた。冒頭ではこの1年で、彼らが様々な悪意にさらされてきた様子が語られている。そんな中での容疑者の無罪判決。まさに彼らは失意のどん底だと言わんばかりの状況なのだが、ここで偶然にも家に引き入れた千葉の登場が引き金となり、山野辺夫妻の思惑が明らかになっていく。ここから物語が動き出すわけである。

 

が。前述したとおり、「死神の対象になった人物はほとんど8日目に死ぬ」のである。千葉は自分のことを死神だとも、本来の目的である調査のことも明かさないため、対象となった山野辺遼はそれを知る由もないのだが、ここが読み手にとって強い「引き」となる。そう、彼らの思惑は、彼らの知らないうちに「時間制限」がつけられてしまっているのだ。

 

実のところ、本作はさらにこの「時間制限」にもとある仕掛けがなされており、その行く末にも自然と注目してしまうようになっている。ここで二つ目の伊坂作品の魅力として、伏線の張り方とその回収の仕方の見事さを挙げたい。

 

伊坂作品では、登場人物が何気なく話した内容などが後半の展開に関わってくることが多々ある。しかもその伏線は一つだけではなく大量に盛り込まれるのだ。ストーリーに沿って話されたありとあらゆる内容が、一つ一つ重大であったり些細であったり、まるで彩りを加えているかのように回収されていく。

 

しかもこれは、前述で触れた「伊坂幸太郎作品の空気感」と非常によくかみ合い、世界観をより強固なものへと至らせている。瞬間で空気感を味わい、全体で世界観を楽しむ、といったところであろうか。この調和がより作品への没入を生み、読後の満足感を一層際立たせてくれる。この感覚にもまた、小説を読むことへのの楽しさを思い出させてくれたように感じる。

 

 

 

以下、核心に迫らない程度のネタバレを意識して、内容に触れる。

 

 

 

本作を語る上で、もう一つ触れなければいけない要素がある。それが「サイコパス」の存在だ。ストーリーは1日おきごとに千葉の目線、山野辺遼の目線と交互に書かれているのだが、彼らは「サイコパス」の存在に立ち向かうこととなる。死神の千葉、比較的一般的な感性の山野辺、そしてサイコパス。その3者には勢力関係みたいなものがあるように思える。

 

サイコパスはその欠落した両親と常人離れした能力で山野辺を弄ぶが、結局は人間であり、しかも山野辺側には死神の千葉が付き添っているため思い通りに事が進まない。挙句、千葉からしてみればどちらも人間である。時として山野辺の手助けとなるようなことをしたとしても、それはあくまで「調査対象に一週間付き添う」ためにしたことなのだ。

 

この「山野辺 < サイコパス < 千葉」の関係をうまくこじらせることにより、ストーリー展開の不明瞭さが出てくる。しかも前述した「時間制限」の要素も関わり、緊迫感も相まってより一層物語に引き込まれる感覚を味わうことが出来た。

 

 

 

以下、印象に残った場面について記述する。完全にネタバレなので、自己判断で読んでいってほしい。

 

 

 

ストーリーを通して山野辺は、亡くなった父のことを思い出す。前半では父の、仕事人間で家庭を顧みない様や、自分の好きなことばかりをすることが語られている。初めはそんな山野辺の父の存在を、私はサイコパスの存在と重ねてしまっていた。今現在サイコパスによって苦しめらている山野辺は、それに似た思い出として父のことを思い出しているのだと。

 

それが読み進めているうちによって、違っていたことがわかる。父は死を怖がった。それも自分の詩だけではなく、息子の山野辺遼がいずれ死ぬことさえも恐れたのだ。だから父は、死ぬまでに自分の好きなことをやり切ろうとした。仕事さえも父にとっては楽しくやりたかったことだったのだ。

 

そんな父が死の間際に、山野辺に「死は怖くない。俺が先に行って見てきてやる」と告げるのだ。それは昔、お化け屋敷を怖がって中に入れなかった山野辺に父が言った言葉と同じだった。あれだけ好き勝手やってきた父はサイコパスと重なった人物ではなく、誰よりも死を恐れた人間だったのだ。そし最後には彼なりの息子への愛情を現した。このシーンには思わず涙ぐんでしまった。

 

 

 

ストーリーも終盤、千葉が山野辺の調査をもう少しで終えるころだ。千葉が山野辺に「死ぬことは怖くないか」と尋ねる。山野辺が父の言葉を思い出し、「怖いけど、怖くない」と答える。この返答で千葉が何を考えたのかは分からないが、これが思わぬ展開へと繋がっていく。

 

本作では「敬意」について語られるシーンがある。いわく「敬意」とは、「その人のために面倒なことをやる」ことと作中では定義されている。その「敬意」を千葉が山野辺に示すのだ。もちろん千葉にとって山野辺が人間であることには変わらないし、彼の仕事への向き合い方の異常なほどの表れとも取れなくもない行動ではあったのだが、結果として千葉は山野辺のために「面倒なこと」そしたのだ。

 

最後の最後に千葉が山野辺に対して「悪くなかった」という一言。初めはなぜ千葉が人間に対してそんな言葉を発せたのか、と不可解ではあった。が、丁寧に思い返すとあのやりとりによって千葉が山野辺に対して何かを感じたのだろう。それによって「悪くなかった」という言葉が出たと思い至ったとき、本作を十分に味わうことが出来たような気がする。

 

 

 

もちろん本作にはまだまだ楽しめた部分があり、それを挙げてしまえばキリがなくなってしまう。「時間制限」の仕掛けにさらにまた仕掛けがあったり、物語にちりばめられ、それでいて重要な世界観へと繋がる伏線はまだまだある。そんな中でも今回は本作を紹介することと、自分が強く印象に残った点に絞って書くことを意識した。欲を言えばぜひ『死神の浮力』を読んでもらいたいが、それよりも「面白かった」と僕が思ったことが伝わっていただけたなら幸いである。

 

 

 

最後に、なぜこの作品のタイトルは『浮力』だったのか。

 

そこにまだ結論を出せてないことをここに書き残して、終わろうと思う。