「活動」という言葉に苦しめられた話

このブログの前身、「オルタナティブにいきたい」を消す前までの話なんですけど。

 

僕はずっと「活動」って言葉に苛まれてたんですよね。

 

どのくらい苛まれてたかというと、何かしら人前に出るような「活動」をしてなければ、人と関わってはいけないのではないか。と思うくらい。

 

多分この言葉だけ見れば、「いやそんなことない」って言う人が大半だと思う。他人でそんなことを言ってるやつがいたら俺だってそう言う。

 

でも「活動」をしている人と関われば、「人前に出ろ」だったり「出来てないやつが文句を言うな」という言葉が突き刺さるように聞こえてる。そんな言葉を聞いているうちに、自分を「目に見える活動をしている人」よりも下の人間なんだなって思うようにもなっていた。事実活動をしてなければ、彼らと関わることはほとんどない。

 

ただそれをギリギリのところで持ちこたえさせてくれてたのが、「オルタナティブにいきたい」っていうブログだった。

 

正論とも思える彼らの言葉たちを体中に刺しながら、それでも「自分に刺さってない場所はないか」を必死で探した。言ってしまえば屁理屈だ。屁理屈でもいいから一矢報いたい。そんなちっぽけなプライドをどうにか形にできたのがそれだった。

 

オルタナティブにいきたい」で僕は途中から攻撃的な文章を書いた。責めるようなタイトルを付けた。正論に対する粗を探し、痛み止めを飲むような思いで記事を書いた。

 

ただそこに、一矢報いてる感触は一つもなかった。

 

これ以上続けるとありもしない被害妄想で記事を書きそうな気がしたので、これはやめようと決意した。それが始まったら、せっかく存在していた「僕に刺さってない部分」が本当になくなっていたように思う。その点で言えば「オルタナティブにいきたい」を消したことは正解だった。

 

その一方で、あれも『活動』だったよな。って思う。

 

立つ場所はステージじゃないし、出来上がるのは作品でもないし、出会う人なんてさらさらいなかったんだけども、それでも自分をさらけ出してた。受け入れられようが受け入れられまいが、自分が本当に思っていることを書いた。これが活動じゃなかったらなんだったのか。

 

いまここで問いたい。

 

 

 

あんたたちが言ってた「活動」ってなんだ?

 

俺はその正体、そろそろ暴くぞ。